2015年8月15日土曜日

写真


2007年に撮ったモノクロの銀塩写真から。
スキャンしてHDDに残していた当時のスナップの断片たちを遡り、自分が写真だと思ってやっていたことの性質を振り返ってみた。
僕の写真の撮り方は、何かを見せたい、伝えたいという意志によって技術を使うというより、カメラで視界と感情をなぞっていたという言い方が正しいように思う。
憧れた森山大道や中平卓馬、佐内正史、川内倫子のようなものを撮りたいなと思っていた。
数年間、大学構内でもまちなかでもコンパクトカメラを持ち歩き撮り、失笑を買う程はまりこんでいた。
けれど彼らの作品からは滲む「テーマ」が自作には定まらず、写真学生という猶予の時間を終えてしまった。
グループ展は参加したけれど個展を開かなかった、というのは、発表するテーマなり理由が見つからなかったからだと思っている。

悲しい感情が原動力となってしまった時に、素直に認めれば良かったのだ。
大したものというより、そこにあるもの、立っていた場所、そこに居てくれた人、そこに居た私、のことが写っていれば、それ以上は必要なかったのだ。
センチメンタルな言い方をすると、ただそこにいることが、OKなんだと思いたかった。
大学後半は消費社会論などに触れた影響で、アートとしてテーマある作品に向けて勉強したり作ったりしたけれど、その人たちの世界に踏み出すことはなかった。 随分身勝手な批判をして、弱かったんだなあという時期でもある。

今はやはり、趣味というしかないものだ。
帰省の折に作った組写真が、情感が籠っていて、素直によさを感じる。もっと人を真正面から撮っておきたかったとか欲もでるけども。



自分の銀塩写真を見る時、カメラのシャッタースピードを感覚することがある。
「一秒より速い」 ことを感じるのだ。具体的には大体が1/30〜1/500くらいのはず。
なんの変哲のないスナップ写真だからだろうか。
スマートフォンやデジカメで写真を撮る時は、ぶれてしまうので、ポーズをとってもらうし、画像を確認してもらうので、変な瞬間は残らない。
作りのない、自分の動かした機械の為だけに残った写真であることが、一因なのかもしれない。

たまに、またフィルムで撮って暗室で、黒めのプリントを焼きたいなと思ったりする。
美しいプリントを観たい。
実は美しい写真の官能を知っている人は、そんなに多くはないんだと、写真の世界を離れてから気付いた。
いつでも、ないものは作る、ということだろうな。
思い出を美しく形にする機会を持ちつづけたい。

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