2020年5月10日日曜日

変わっていくとき



(1)
写真について。
日記のように、あるいは日記のように撮ることが「私の表現」と思ってきたからか、まっすぐ目を向けられなかったことがあります。
「テーマ」と「技術」です。
たとえば、咲く前の寂しげな桜のつぼみの写真も美しいと思うのですが、その魅力を引き出せているのか? 自分の気持ちを重ねるにしても、視界に収まったものを漫然とラベリングしているだけでは? との疑問が大きくなり、自らのやり方に不満を抱えながら作っている状態です。
これまで「私個人の視点」からの見え方として集められるものと思い、「金太郎飴写真」をよしとしていました。しかしそれが、テーマをすべて「私個人の視点」に回収してしまうし、被写体のことをしっかり見ていない。表せていない。と違和感を覚えるようになりました。

技術がよくなると、「満開の」「枝振りの良い」イメージを満たす写真も撮りながら、新たな面を表現できることに気づくはず、という想定です。
長年カメラを手にしながら、進んでいかないのはもったいない。

視点を変えることも大切ですが、そこでも技術は忘れられるものではありません。
拙く始めて、これから先が長い…とひるんだり、わくわくしたり、忙しいです。
デザインの仕事を続けているから「アピールするテーマを設定すること」「テーマに対する表現の方法を豊かにすること」ということを強く意識していると思います。
写真もそのくらい言い訳なしに取り組みたいです。
これまで避けてきたカメラ雑誌も買ってみようかな。インプットしてアウトプットは何事も同じです。

その先で、曖昧にしてきたゴールを見つけたい。



(2)
新型コロナウイルスの影響で人との対面接触を極力避けるため、自宅から映像をつないで「オンライン飲み会」することがSNSで流行っていたのをきっかけに、いろいろ人と連絡をとって楽しく話しました。
もともと友人達とは離れた地域に暮らしていて、やっていることはほとんど変わりません。みんな、それぞれ元気にやっていて安心します。
こういうことがいちばん嬉しいです。


(3)
7月の文学フリマ、参加予定だったのですが、開催が危ぶまれる状況です。
なにかしら対策を講じて対面販売できる機会が欲しいところ。
近年本や音楽などのクリエイティブ関連が、一部のプロだけでなく在野の人々にも注目が集まりやすくなり、人間らしい「体験の時代」を作っていて、現場に行くことが重要となってきたところに、それ自体が生体として自分たちを守るために不可能になってしまった、ことに衝撃があります。
人との距離はデザインされ直して、それが続いていくんだろうか? 元の木阿弥にならなくなったら、また近づいていくんだろうと予想していますが、果たして。